はじめに

 生物の多様性の保全は、環境保全、食糧保障や産業資源確保などの観点から、人類共通の懸案課題である。ワシントン条約(CITES, http://www.cites.org/ )や生物多様性条約(CBD, http://www.biodiv.org/default.aspx )、そして2002年の南アフリカヨハネスバーグでの持続性サミット(WSSD, http://www.johannesburgsummit.org/ ; http://www.iied.org/wssd/ )、FAO植物遺伝資源条約(FAO-IT PGRFA, http://www.fao.org/ag/cgrfa/default.htm) や2004年のCBD第7回締約国会議などの取り決めによって、これらは国際的に保障され、かつ実施しなければならないものの、政治、社会、経済そして科学技術それぞれの要素において様々な問題点が存在している。本研究室では、近年飛躍的な発展が見られる保全生物学、及び遺伝子情報科学に焦点をおいた生物資源の保全についての研究や今後挑戦すべき科学技術と社会科学など他分野の融合について検討し、遺伝資源の持続的利用に繋がる研究を行っている。

 遺伝資源は、 ある生物種内の多数の個体の間の遺伝的多様性に基づくものである。 例としては、 個々のひとが異なる体質や性質を持つように、 それぞれの性質(形質)ごとに、 それぞれ多様な遺伝子が個別のひとごとに存在し、 よって様々な遺伝子の組み合わせによる異なる形質を持つ多様な人々が存在するが挙げられる。
遺伝資源は、 人々の生存を支え、 生活に利用され、 文明の基盤を形成することに寄与して来た。 遺伝資源は水、 大気や土壌のように環境のなかの重要な要素であり、 これらの調和と人類の生産活動の調整により、 異なる生物種の多様性は維持され、 地球生命圏が保全されている。 従って、 遺伝資源は、 人々の細心の注意がなければ、簡単に劣化・損失し、 結果として生物多様性が失われ、 地球全体の存亡にかかわることになる。 そして、 一度失われた遺伝資源は、 最新のバイオテクノロジーを用いても再生できない。 その一方、 遺伝資源は知的作業によって、 限りなく付加価値を創成してゆくことができる資源である。

 植物についてあげると、 推定される現存の植物種は約60万種もあるといわれ、 その過半数は被子植物である。 食糧及び農業に関する主要な植物遺伝資源のほとんどは被子植物である。 また、 植物は、 食資源だけでなく、 家畜飼料、 衣服の繊維、 伝承医薬、 燃料、 建材、 工作材料、 防風林や川の“わんど”のように環境保全等に幅広く利用されてきた。 このような様々な利用目的により異なる植物種が用途に応じて使い分けられ、 各植物種内においても遺伝的に異なる多様な株や品種が作り出されてきた。 これらの種多様性や品種の遺伝的多様性が、 人類の生存および文明の基盤となってきたといって過言ではない。 植物遺伝資源は人類とともに存在してきており、 それらからの歴史的知見や用途を失わずに、 過去から学ぶことによって、 未来へ活用してゆくことが重要な要素である。

 植物遺伝資源は人類の発展とともに、 いろいろな手が加えられ、 改良されてきた。 また、 利用についての、 多くの知識が得られてきた。 19世紀以来、 遺伝的多様性を利用した品種改良が積極的に進み、 1900年のメンデルの遺伝の法則の再発見を開始点として、 今世紀に入り、 特定の食用作物種においては品種改良や栽培法が体系的にかつ飛躍的に進んできた。 これにより、 現在日常生活で利用されている食料植物遺伝資源は、 約300種前後に集約されてきた。 採集生活に頼ってきた頃と比べると、 食用に利用される主要な植物種の数は大幅に減少してしまった。 農耕が始まる以前の10,000年前の人類は、 年間に植物を主体とする10,000種に及ぶ生物種を食糧としてきたと言われている。 一方、 現在の日常生活では、 30品目の食材を一日の内に摂取するのも、 都市生活を行っている日本人には難しくなってきた。 そして、 生産や保蔵加工の利便性から特定の作物種のみが利用されるようになってきた。 そのため、 太古の狩猟・採集生活時代に、 もともと多様な種類の植物種を少量ずつ利用してきた頃とは異なる状況が現在ある。 多様な種を片寄らずバランスよく使うことによって乱獲を避け、そして維持されてきた植物の多様性が、 偏重した作物種及び限定された数の品種の栽培により大きく変わってきた。 特に、 食糧保障のため大量生産を考慮して、 生産における均一性や機械化による利便性を重視した品種改良が世界的に進んだ。 具体的には、 イネ遺伝資源由来のsd-1や日本のコムギ系統農林10号由来のRht遺伝子などが品種改良に多いに貢献した。 世界で、 供給できる食糧は大量に保障されるようになり、 1960-70年代に緑の革命をもたらした。 生産性は確保された一方で、 その弊害として、 多くの作物種での品種の遺伝的多様性の著しい減少が起こった。 現在は、 遺伝的多様性の減少による新しい病虫害や環境変動等に対する遺伝的脆弱性が危惧されている。 実際、 今日までに遺伝的多様性の激減によって、 飢饉や環境破壊等の多くの災害が世界的に生じている。 約150年前にアイルランドで起こったじゃがいも飢饉が典型例であり、 この飢饉により社会が変わり、 人類の歴史に大きな影響を及ぼしたことは周知の事実である。

 植物の栽培化と作物の品種改良は、 文明化が起こってゆく上では、 必須の課程ではあった。 一方、 現代においては、 過去を学ぶことによって、 文明化による犠牲を極力押え、 生産と持続性の両方を維持することが、 人類存亡の課題に現在なってきているのではないかと考えられる。 植物遺伝資源の多様性の維持は、 食糧保障や農業の持続性と直結しており、 人類いわんや地球の全体の懸案事項である。
以上のような事情を踏まえて、「植物遺伝資源の無限の価値を探る」をテーマとして掲げ、次の4分野の研究を課題としている。

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